2011年2月7日月曜日

文楽の艶



もう昨日かな・・・・友人の誘いで文楽を見に行ってきました。

文楽は学生時代に見たので、今回は二回目。
ずっと見たかったわけです。
というのもアニメーションという表現においても無関係とは思えないというのが初めて見たときの印象です。
川本喜八郎さんとか、人形アニメもありますしね。
かのロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテイン仙人もかなり文楽に関しては言及していましたね。


文楽ってこんな感じ


日本古来の娯楽としてみても日本人の感性というのは非常に様式美を好むことがよくわかる。
舞台というレイアウトの中に全てが詰まっている。

・語り手である 義太夫
・BGM、SEの音響担当 三味線の弾き手
・登場人物または作品のキャラクターである人形
・そして人形に魂を服こむ演者である人形師

この多種多様な要素がひとつの場に収まるということ自体が驚きではある。
僕らが見る演劇、映像といった娯楽にも欠かせない非常に現代的な表現に通じる要素がひとつの舞台に集約されているという日本人のデフォルメ能力には舌を巻くばかりである。

友人とも話していたのが上映中、2、3度はぞくっとくる快感を感じることがあるのだが
これは舞台上で役者ではなく人形が演じる倒錯感に起因することが大きい。

動きや、人形の作りがリアルだからではない。
むしろ見る側の想像力刺激するフィクショナルな存在感が人形から浮き上がってくる。

僕はどうしても自分がやっていることでもあるのでアニメーションとつなげてしまう。

人形という立体物でありながらアニメーション特有のフィクショナルな表現に近いと感じるのは
この文楽自体が三次元的な立体感というよりも、二次元の立体化、ようは二次元を三次元におこしたような
感覚に近いと思う。二次元的なキャラクター、アニメチックなデザインを3Dにおこすゲームとか(いわゆるセルシェーダー的な)海外ではリアルを追及しているが逆に日本では二次元的な絵空事を立体的にたちあげているアナログ感覚の趣向を感じずにはいられない。人形の造形や衣装は様式と記号の集合体であり、人形そのものの質感やリアリティーみたいなものを逆に配して極限までフィクションの中に存在するキャラクターとしての存在感を優先して作られている。ここは結構ポイントだと思う。

アニミズムという意味でもアニメーション的ではあると思うが
イラストやキャラクターという絵に絵物語を演じさせ人々を魅了するアニメーションの倒錯感と
文楽の快楽は非常に近いと思う。

アニメーションという意味で動きに関しても面白い発見があった。
文楽だけではなく京舞や狂言、能、歌舞伎にかんしてもそうだが、感情表現や物語のテンポを
極限までデフォルメして最小限に表現するのは日本人の十八番であると感じる。
いわゆるアニメで言えばリミテッドアニメーションというのがここまで日本独自の進化を遂げたのも趣向が関係していると思う。
更に友人と話していて面白かったのは、何故人形を動かす時に複数の人間を使うのか?というところ。
僕らが話していてでた結論は「あえて不協和音を奏でさせることによって、人の動きの自然な部分を描こうとしているのはないか」ということ。
一人で動かせば人形の動きは基本的に段取り通りに動かせることができるだろう。なら何故あえて段取り通りに合わせづらい多人数で人形を動かすことが必要なのか。
むしろ人形師同士の段取りとはあわないズレみたいなものが、逆に人形師も意識できない人形の細かい仕草に影響しているのではないか?という話。
無駄な動きを一切排するというのは、逆にいえば段取りっぽくなりすぎて機会のような動きになってしまう。
アニメの作画においても同じことが言えると自分は感じる。
きちんと中を均等にいれて動きの軌道上にのせると、人間の動きというよりはロボットの動きに近く感じてしまう。
ここでいう人形師同士の動きのズレを無駄な情報と考えるとアニメーションで言うロトスコという手法で動かした作画に近いと思えてきたのだ。
ロトスコは基本人の動きを実際の取ってそれを絵に変えていく。
たまたまここ最近うちの自主制作でもその手法を利用したシーンがあったのだが、実際に使ってみて思うのは、人の動きをそのままトレースしただけでは絶対にうまくいかない。
むしろ人の動きの無駄な部分を拾うことによって実写とも完全な手書きとも違う紙の上での自然なリアリズムが生まれる。

結果的にはどちらの手法もデフォルメではあるのだが、ひとつの作品の中でもそのアプローチは様々であり。
アニメーションがそうであると同じく、文楽という表現もまた複合的で奥の深いものであると改めて痛感させられた。


こっからは萌え話w

演目は二つあったのですが特に印象に残ったのは

「芦屋道満大内鑑」という浄瑠璃ですね。

あらすじ

陰陽師の安部保名が妻の葛の葉と我が子(のちの晴明)の三人で仲むつまじく暮らす
安倍野の家に、信田庄司とその妻が娘の葛の葉姫を連れて訪ねてくる。
保名の所在を聞こうとすると、なんと娘と瓜二つの女性が顔を出すではないか。
驚いた庄司は、何かいわくがありそうだと保名の帰りを待つことに。
帰って来た保名の前に「嫁入りさせに来た」と娘の葛の葉姫を差し出せば、
からかわれていると思う保名。だって、葛の葉なら六年前から夫婦になっている。
現に、家の中からは機織りの音が聞こえるではないか。
ありっ?! では、目の前の姫はいったい?! これは変化か天狗の仕業か?
保名は事の真相をただすことにする。
日も暮れかかった頃。葛の葉は愛しい我が子を抱いて、父に伝えてくれと物語る。
実は、自分は信田の森に棲む千年としふる白狐で、命を助けてくれた保名のために
葛の葉に姿を変えて妻となり、子までなして楽しい日々を送ってきたが、
本物の葛の葉姫があらわれては、もう一緒には暮らせないのよ、と。
障子に「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」と書き置きして、
子どもと別れる辛さを振りきって、泣く泣く薮の中に消えていった。
こっそりと仔細を聞いていた保名は、
葛の葉の書き置きをたよりに、あとを追いかけていくのだった。


非常にファンタジックでメロドラマな展開でした^^
後半の妖狐の独白のシーンなんかはかなりグッときました。
江戸時代の観客達はこのファンタジックなフィクションの中に自分を重ね合わせたり、感情のおきどころを見つけ涙ぐんでいたことでしょう。
とにかく終始魅了されたのは人形の動きとデザインです。
見れば見るほど感情移入していきます。
人形というのが決して人間を模したリアルなものでないことがよくわかりました。
特に女性の人形の艶っぽさは異常です;
これはもちろん衣装や人形の造形もさることながら演技の素晴らしさたることや本当によく演じ分けられているんです。
妖孤が化けている主人公?の葛野は健気で健康的な人妻でありながらどこか獣じみた動きがちゃんと含まれています。
二つ目の演目でしたがお姫様は動きが極端に少なく、ちゃんと貴族然としたたちふるまいなんですよね;
ちゃんと描く女性キャラクターの設定どおりの魅力と各キャラクターの色っぽさが表現されているんです。
途中から人形であることを忘れ、そのキャラクターに見えてしまうのはちょっと怖いともいえます。
これはちょっと魔性の魅力を感じます。
あくまで者である人形が完全にキャラクターとして存在するんです。
これはちょっとひきこまれますね;
とにかく女性の人形がエロいエロい;
終始はぁはぁしてました。
ちょっとした割烹着?の脱ぐときの仕草、悲しみに暮れるときの伏せたような仕草
歩き方から、襖の開け方、手のしぐさ、体のラインの見せ方
動きのひとつひとつがまるでそこに本当に存在するかのようなエロティシズムを感じてグッとくること間違いないです。ノルシュテインが「お前らマジで文楽見てこい!」と説教していたのがわかる気がします。
これはアニメーターにも色々なヒントがあると思いますよ。
アニメでいうキャラの日常の仕草の魅力に近いかなぁと思います。
そういうのを気にする人はその動きひとつひとつに気がついて興奮することでしょうw

特に面白かったのはこの狐のお話のエピローグ的な意味で語られる
「蘭菊の乱れ」というお話で
人間と暮らし続けることの出来なくなったクズノハが悲しみ暮れながら故郷の森の帰っていくという演目なのですが、これは今書いた動きと人形の魅力にあふれた作品でした。
物語というよりもひたすらクズノハが森に帰る様子を描いています。
もうこれがヤバい;
動きがエロい!
どんどん話が進むごとに、クズノハの動きが獣じみてくるんですよ。
女性的な艶っぽい奥ゆかしさもありながら、獣ぽい荒っぽさも同居していて、それがさらにこのクズノハというキャラクターのエロティックな肉体性をあらわにしています。

極めつけは衣装ですよね;
着物からどんどん獣をイメージさせるような衣装に変わっていく様は「江戸時代の演出家すげーすげー」状態w

見終わった後はこの悲しくもせつない妖狐の女に哀愁と好意を抱いておりました。ええ。
また背景というか舞台美術が素晴らしい

夜の森の霧がかった背景の描き割り、夜の光を象徴した蝋燭の火、そして鈴虫のSE

こういう伝統芸能って小難しいイメージがある人がいると思いますが。
是非興味があれば見てほしいですね。
昔の大衆娯楽でしたから。様式は違えど現代の表現に共通するものもたくさんありますし。
あの人形の艶っぽさは他では味わえないものですよ。

人形に取りつかれる人がいるのはなんとなくわかる気がする。

と長々と書きましたがまだまだ書き足りないぐらいですほんと;

とにかく一言で言うと、人形の動きと造形の艶っぽさ!これに尽きると思います。
僕は完全にクズノハに萌え萌え状態でした。

2011年2月1日火曜日

色味は難しい



ちょっとスタッフの動きがないので、ここ最近は撮影が1通り終わっているカットの色見直しなどをしています。主線を色トレスにするかなど色々悩んだのですが、エフェクトを描けると結局色味がついてくるので仕上げの段階では黒のほうがいいのかもなど。

夜のカットは一部から見づらいという意見もありましたが、これは割と狙いがあってというのがあるので現存のままで行きたいと思っている。見やすくクリアすぎるのもまた僕としてはいささか疑問があるところなので。
その辺はあんまり不安に感じる必要はないのかなと思った。
僕の職場で知り合った某アニメ監督は画面を基本的に白く飛ばす撮影処理を好んでいて、ものすごく見づらかったりする。キャラ以外全部T光みたいな処理をほぼ全カット多用していて、もうキャラが白い光で飛んで見えないほど。さらにいえば特殊効果さんがわざわざつけた処理がぶっ飛んでブチ切れるほど・・ですw
それと同時に観客である自分としては監督なりのなにか画面的な意図を強く感じる。
この辺のアプローチは「アニメなんだから普通は・・・」みたいな意見に左右されないようにしていきたいと思っている。
昼間、朝に関してはカットごとにキャラの色身を仕上げの段階で微調整していたのだが、もっとシンプルにアニメーションの定型を取り入れてもいいのではないかと思っていたりもする。

この辺の采配はあくまで監督の好みではあるものの、特殊化されたものと普遍的なもののメリハリは大事にしなければと思うところです。
色味や処理は正解がないですね^^;

短編シンドロームの制作も大分進んで、そろそろ形が見え始める感じだ。
尺が短いというのは救われる^^;
単純に自己負担率を高めて、チームというよりは三人くらいで黙々と動いているのでまた趣向がちょっと違う。
これもまた「てくてく日和」とアプローチが全く違うのので楽しみではある。
学生の頃からずっとやってみたかった空間の作り方を実験してみようと思っているので、結局定型にはならないみたいではある;

と今日は真面目な話でした。
新しいスタッフも入ってきてまた違った様相も見せているチーム制作です。
ここが踏ん張りどころだと思う。

相変わらず作画、背景スタッフは募集中です。
http://www.interfacedogs.com/recruit.html