2013年4月5日金曜日

妄念録0405

 
 
最初に言っておいた方がいいとは思いますがちょっと否定的な内容も含まれますのでよろしくお願いいたします^^;
 
 
 
○最近思うところというもやもやと自主制作記録

約二年ぶりにブログをつけ始めたわけで・・・・ちょっと色々な体験を経て思うところ書いてみたいと思っています。
アニメーションの表現に対する可能性というテーマです。

以下文体のですます調はやめます。ご了承を

これは自分がアニメ業界という世界に入ってから、自主制作を通じて色々な人に出会い、また活動している方を見てきて感じている話だ。
具体的にあげつらねていくと長そうなので割愛させてもらいつつ、現存するアニメ作品、そして制作者に対して(あえてここではアニメーションという言葉は使わずアニメといわせてもらう)何か漠然とした違和感をずっと感じていた。逆に言えば違和感を感じるからこそ「違和感に対して自分的にはこういう表現をしています」という行為が自主制作につながっているという、なんとも批判するうえで自分のハードルを上げているわけではあるものの・・・・;

なんとなくぱたんと自主を止めて、仕事に没頭しはじめたころから二年経ち、その違和感の正体と自分が進みたい方向性というのが見え始めてきた。

これからいうことは自分自身が物語をイメージに落とし込むことを根っこにしてアニメーションを制作する視点からであることは前述してかなければならない。
そして先ほどアニメーションではなくアニメという言葉を使ったのは、アニメーションという命のないものが動く快楽的要素だけでは成立していないモノを総称している。いわゆる商業的に流通しているアニメーション作品、またはここ最近の自主制作に対しては基本「物語」という要素がついてまわっているということは少なからず共通しているので、そういうものをアニメ作品と呼ばせてもらった。

もっとわかりやすくいえば動きだけではなく、ストーリーやキャラクター、台詞が重要な要素となっている作品だ。

ついこの間、新人育成を目的とした某20分くらいの作品集を見た。これが新人教育を目的としているという部分については賛否両論であり、もっと根本でいえば「技術は盗め」的な職人気質なこの業界で教育が成立しうるかという問題をこの企画は孕んでいるのは、個人的には大きなことではないように感じる。
むしろ、基本的にはクライアントの依頼を忠実にいかにこなすかということがほとんどといっていい、下請けとしての制作会社が自分たちの企画で作るとここまで内容が脆弱なのかという危惧の方が大きかった。
特に魔法学校を舞台にした作品が、いまの業界のクリエイターのメンタリティーを色濃く映し出していて、非常に興味深く、また「まだそんなことを考えているのか」と途方に暮れた。

軽く具体的に触れると、ようはものすごい小さな認証欲求を正当化するような世界がそこには描かれていた。その作品の監督自体が公言していることなので、これは間違いないのだが作品に出てくる「魔法学校」そのものが、メタ的にアニメの制作現場を表しており、そこの学徒たちは現場で働くクリエイター達を指している。
しかしそこで語られるテーマというのは「若い頃に80年代アニメに影響を受けた自分に対する認証欲求」そのものであり。そこにはアニメに対するリテラシーも自分の認証欲求に対する客観的視点(自分がクリエイターであるという動機)も必要ないと、本当にそのままキャラクターが体現し、または台詞でそのまま言っている。これにはさすがに驚愕した。メタフィクションをするうえで必要な自分に対する、または自分たちに対する批評性はまったくないというよりは否定している開き直りっぷりだった。
その幼稚性こそが、現状のアニメーション表現に対する問題点そのものだと非常に強く感じた。
自分の周りでも多々言われることだが、アニメーションは自分で作ってもわかるが手間のかかる表現だ。特に昨今は制作現場は多様化するとともに分業化が強く、ひとつの作品を作ることはとても労力のかかることであることを前提として、「頑張る、努力する」という行為自体だけが評価され、その結果、内面を作る(例えばテーマに対して掘り下げるような行為)という意味でまったく表現として成熟していない、むしろ劣化しているのが現状のように感じる。
これは一概に全て作り手の幼稚性と言い切るには無理な状況はたしかにある。アニメだけではなく、娯楽は多種多様化している環境に起因するところも大きいかもしれない。

つまり自分が専門とするアニメという分野でいえば、なんとなくぼんやりとしたビジョン(テーマでも内容でもいいのですが)の中で技術だけが過剰にスキルアップしている状況が現状だと自分は考えている。各作り手たちの努力の結晶は、CG表現にもみたれる技術的な部分の過剰な進化には働きかけているものの結果内容がそこについてきていないが今の状況じゃないだろうか。

つまり長々と書いてしまったが、今作られるアニメというはPCで作られるようになって、手の込んだ映像を作ることは先鋭化している(むしろ今最も先鋭化しつつあると思う)上でどこかそこに描かれるテーマや物語に胸を躍らせることはないという大きなズレこそが自分の感じる違和感なのだろう。
とまあ愚痴みたいな事ばかり書きたいわけでなく、ここ最近鑑賞したモノの中に今言った違和感を突破する、いや・・・・ある種使い古された手法ではあるものの作品を作るうえで大事なアプローチを見たからこそ余計に感じてしまうもどかしさであることはいわなければならない。

ひとつは海外で人気のある「マイリトルポニー」というシリーズがついに日本に輸入されてきたことが大きい。

自分は海外のアニメーションをこよなく愛しているという前提を除いても非常に力のある作品でおどいた。正直この作品が海外でヒットしているという情報を聞いたときはあまりピンとこなかった。
海外のテレビシリーズの画面の作り方は、いわゆる日本のアニメにおける出来のいいアニメと比べても非常にローコストだ。
手で描かれた作画というよりパーツにわけられた切り絵を動かす感じ(フラッシュ的)も含め正直画面から感じられる完成度はどこまでもローコストだ。
しかしこの作品が非常によくねられた作品であることは内容を見るとよくわかる。
まずこの作品を見て一番近いなと感じたのはセーラームーンだ。
おそらくこの作品のメインターゲットである少女に面白いと感じさせる工夫が所々に見受けられる。
わかりやすくデフォルメされた少女性がうまい具合にメインキャラクター6人に分配され、うまく描き分けられている。またシンボリックに女の子という生き物をうまく世界観とキャラクターに落とし込まれているのは見事としか言いようがない。女性が少女期に何にあこがれ何を欲しているかという部分に対して徹底的に好きなく練りこまれている。
具体的に言えば、ファッションとか心理的な描写だったり、生理的な欲求だったりがほんと無駄なくきちんと詰め込まれているのだ。
これは世界的にクロスオーバーした「セーラームーン」のクリティカル性ととても酷似している。
マットで極力ディティールは省略され、また動きや絵作りという意味でローコストな仕上がりであっても、そこに描かれるテーマ、要素に対する掘り下げ方、シンボル化=デフォルメは非常に考えられた強度を持ったものであることにいたく感心した。

以上ちょっと久々に長文書いてみた。

「マイリトルポニー」だけでだと、ちょっと説得力がないとは思いつつも;
ちょっとケモナー趣味・海外アニメ好き趣味ははいっている人間ですしね;

いやぁ何をいいたいのかというと
今のアニメ作品に対して商業とか自主とか抜きでもうちょっと、自分がやっている表現、テーマ設定に対しての掘り下げがあってもいいと思うよという話だし、自分もちゃんとせねばという自戒のメモでもあったりするのです。でもある意味自分が自主制作するうえでも仕事でも、じっくりアプローチするハードルが必要ということが分かったという話なんですけどね。

海外作品だけが面白いというわけではなく、日本のものでも面白いものがありますよ。
最近ユーフォテーブルって会社が面白いなと思っています。
きっかけは「百合星人ナオコさん」見て感じたのですが、あれって今のコミティアでよくみられるサブカル漫画っぽい世界がうまくアニメ化されているなぁと思ったんですよ。
ある種すごく旬な表現に成功しているなぁと。
EDの映像も廃墟と踊る幼女と電波ソングみたいな組み合わせが、今の若いコミティアファン層に結構ヒットするのかもとか思ってみたり。
今の若い子にあの会社の作品がうけるのはちょっと腑に落ちました(ようは前まで苦手なんだったということなんですが)
次回作の原作「呪い屋姉妹」ですよ?(苦しくもコミックRYUだしね)
あのマンガめちゃくちゃ変な漫画なので、とても今の商業ラインのメインターゲット向けではないです。ちゃんとあのマンガの感じを映像化するならすごいと思う。
FATE/ZEROとかやってるから割と若い会社の中ではヒットメーカー的なイメージが強かったけど、結構アニメ会社にしてはが面白いアプローチいているなと思います。
メジャーマイナー(マイナーメジャー?)の世界を貫いている感じはなにか、商業アニメに独自性を生み出す可能性は感じられるかなと思います。

とまあ偉そうに長々と書きましたが、次回は自主の報告とかもしたいですね^^
久々にブログ始めたので近況と最近思うところをまとめてみました。

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